小杉湯

東京チェンソーズ 代表

青木亮輔

小杉湯のイベント風呂をきっかけに親交が始まった、檜原村の林業会社「東京チェンソーズ」のみなさん。代表の青木さんに話を聞く中で浮かび上がってきた、「銭湯」と「林業」に共通するフィーリングの源泉とは。

東京にありながら面積の93%が森林という檜原村。そんな檜原村の観光名所である「払沢(ほっさわ)の滝」の駐車場から、さらに車で林道を登る。



蛇の体をたどるようにカーブを曲がるたび、窓から見える山々の目線がどんどん高くなって行く。「ずいぶん高いところまで来たな」と思い始めた頃、「東京チェンソーズ」の管理する山の入口に到着した。
車から降りると、辺りはしっとりとした冷たい空気と、少し暗く濃い土葉の香りに満ちている。



東京チェンソーズは、その名の通り東京・檜原村の山でチェンソーを手に森を管理する林業会社だ。代表の青木さんは20代でチェンソーズを立ち上げて、東京の水源地であるこの森を次世代につなげることを目指し、守りながら活かす新しい林業の形に挑戦している。

以前、小杉湯のイベント風呂として「東京チェンソーズの湯(※)」を実施したことがきっかけで親交が始まった私たち。銭湯と林業、一見全く業種の異なる東京チェンソーズの方々が話す言葉の端々に、どこか銭湯と共通のフィーリングを感じていて、その理由はどこにあるのだろうと気になっていたことから、今回改めて代表の青木さんの生い立ちや、東京チェンソーズの成り立ちについてゆっくりお話を聞く機会をいただいたのだ。

※林業の過程で出るスギやヒノキ、サクラなどの端材をいただいて湯船に浮かべ、お風呂に入りながら森の香りを感じるイベント風呂を行った。待合室では東京チェンソーズさんオリジナルの木製の一輪挿しやオイルを紹介したほか、「小杉湯となり」にて、カッティングボードを作るワークショップを開催。

チェンソーズの取り組みに関心のある小杉湯のメンバーも参加したので、集合してみるとなかなかの大所帯。東京チェンソーズの吉田さん、高橋さん、社本さんに迎えられ、一緒に山道を歩きはじめた。




敷き詰められたしっとり湿った山の土がザックザックと足に心地よい。
「すごい霧ですね」
さっき山の上に見えた霧が、ちょうどゆく手に白く濃く溜まっている。

東京チェンソーズの吉田さん


「晴れた日の山もいいけど、こういう天気も結構きれいなんです」と吉田さん。
冷たい雲の中に入っていくなんて体験ができるのは、飛行機に乗る時くらいだろうか。白い霧に包まれると明らかに空気が冷たく、寒い。



檜原村は秋冬は晴れることの方が多く、今日は久しぶりの霧の日なのだそう。周囲を取り囲む木々の呼吸を直に浴びているような質感のある心地よさに、わくわくした。



この森にはウッドデッキや山小屋など、森をさまざまな形で楽しめる仕掛けが散りばめられている。この場所まで歩いてものぼってこられるようにと、数年がかりで少しずつ山の中に道を新たにつくっているのだそう。

東京チェンソーズの社本さん


戦後に人の手で植えられた檜原村の木の樹齢は、およそ70年。それを今の時代にあわせてどう使いながら守ってゆくのか。吉田さんや社本さんはじめ、東京チェンソーズの方々とお話するのは初めてではないのだけれど、何度聞いても新しい発見があって質問が尽きない。
木や山の話を存分に聞きながら、休憩場所に到着した。




雲に包まれて歩いてきたからか、防寒着を着ていても手足の先からしっとりと冷えがつたわってくる。
「なんだかすっかり冷えましたね」「焚火したいねぇ」
と、誰ともなく呟いたかと思ったら、高橋さんがあっという間に薪を持ってきて、ぱぱぱぱと適当な薪を組み火をつけ始めた。

東京チェンソーズの高橋さん


早い。これは、相当な”焚き火玄人”の手付き。
聞けば、プライベートでも山に来たときはよく焚き火をして、本を読んだりコーヒーを飲んだりしながら過ごす時間が好きなのだそう。なんとも羨ましい焚き火習慣である。



焚き火大好き高橋さん、案内をしてくれた吉田さんや社本さんが集う「東京チェンソーズ」というチームについてもっと知りたくなったところで、代表の青木さんが合流した。

東京チェンソーズ代表の青木さん


火の周りにみんなで小さな椅子を並べて、ぐるりと円になる。
青木さんは、どんな人生を経て、林業に関わるようになったのだろうか。そして、どんなふうに東京チェンソーズに仲間が集ったのだろうか。パチパチと木が爆ぜる小さな音を背景に、早速青木さんの半生を振り返るお話が始まった。



青木さんの成り立ち

子どもの頃から自然や外で遊ぶことが大好きで、高校時代は冒険家・植村直己に憧れていたという青木さん。

高校卒業後の進路を考えるときも、青木さんの頭にあるのは「探検ができるかどうか」。憧れの植村直己は明治大学の山岳部出身。どこかに面白そうな探検のできる大学はないかと探す中で目に留まったのが、東京農業大学の探検部だった。

探検部に入るため、受験できる学部はおよそ全部受け、唯一受かった学部へと進学した。

「飲み会で真っ裸になって飲むようなちゃんとしたふつうの(?)大学生でした」と大学生活を謳歌する一方で、 北海道から沖縄、さらには海外まで遠征するほど探検にのめり込んだ。

「基本は洞窟とかに行くことが多かったですね。今の時代、空から衛星でなんでも見えるけれど、地底は見えない。入り口はこんな小さいのに、奥は東京ドーム何個ぶんなんて広さがある場所とかもあったりして。そういうのにロマンがありました。」

海外遠征のために企業をまわってスポンサーを集めたりもした。食品メーカーを訪ねて行って、フリーズドライの食品とコラボレーションしたり、当時まだ日本の小さい企業だったゴアテックスにアプローチして、スポンサーを得る代わりに現地で写真を撮ってきたり。時間がある時はアルバイトで探検代を稼ぐなど、 気づけば探検を通じて自然と社会との接点を持つようになっていた。

そして現れた、就職活動という現実


青木さんが4年生になった頃、世の中は就職氷河期真っ只中。

「みんな就職活動をめちゃくちゃ頑張っていたけれど、ぼくはみんなが就活してる時も探検のためにバイト代を稼いでいて、卒業してからも1年間大学に残りチベットの遠征に行っていました。チベットから帰って来て、もう学生じゃないし気づけばみんな仕事を始めている。さて働かなきゃいけないぞ、と仕方なしに就活を考えたら、そこで初めて新卒じゃないということに気づいたんです。」

就職情報をかき集めて企業への就職を果たしたはいいものの、その時の青木さんは「仕事」=「バイトの延長」という気持ちだった。いつかまた遠征に行くかもしれないという思いが頭の片隅にあるなかで、周りの人の就職した方がいい、という圧に乗ってしまったところもあった。

「教材を売る会社で1年働いてみて、なんかちがうな、と思ったのが卒業して2年目。同年代の人は年齢的にそこそこの仕事を任されたりし始める中で、自分はこのままでいいのだろうかと悩むようになりました。そこで初めて『やばいな、これからどうしよう』と。気づくのがちょっと遅いタイプなんです(笑)」

探検部と林業がつながるとき


仕事というものに改めて向き合って考えた青木さん。
ただ働き口を探すだけならいろいろ選択肢はあるけれど、なにか自分だからこそできる仕事を探したかった。

「自分には『これ!』と言える技術やスキルはないと思っていたんです。あえて言うなら、子どもの頃から自然が好きで、普通の人よりは自然の中に入ることや手足を動かしたりすることが得意。人が不便と感じる場所を不便に感じない。そういう、自分の好きなことや得意なことの先で自然に貢献できる仕事がしたいとなんとなく思った時に、ふと林業のことが頭に浮かびました」

かつて、探検部に入るために東京農業大学の多くの学部に挑んだ青木さんだが、実は受験した学科はほぼ全滅。唯一蜘蛛の糸のように残ったのが、農学部林学科の補欠の連絡だった。合格通知最終日の夜8時半、家族全員が諦めムードだった時に、合格を知らせる電話がかかってきた。

「補欠の中でも最後の最後のケツの方だったでしょうね(笑)合格してなかったら、また全然違う人生だったと思います」

林学科に入学したので、林業について情報としては目に触れていた。日本の約7割が森林で、林業は担い手がおらず衰退の一途を辿っているという今の森の課題も学んでいた。ただ、当時は自分が林業に携わることは考えもしなかった。

自然が好きで、若くて体力があり、困難な仕事であればあるほど燃える。林業を斜陽産業と呼ぶ人もいたが、青木さんにはそういった自分の特性を存在意義として発揮できる可能性がある場所に見えた。

「ITとか、これから伸びる可能性がすでに見えているところに自分が行ってもできることは少ないけれど、やりたい人が少ないところならむしろ何かできるんじゃないかと思いました。今マイナスなんだからプラスに持って行きやすいかな、と」

探検部で培ったのは、人跡未踏に挑むこと。衰退して人が離れつつある林業への挑戦は、まさに探検部でやってきたことと同じような開拓しがいのあるフロンティアに見えた。
学生時代に触れてきた環境と、探検にのめり込んできた嗅覚が自然と混じり合い、自らの価値に変わる瞬間だった。

東京チェンソーズができるまで 

しかし、林業家への道は平坦なものではなかった。



成り手もいないが、そもそも若者の採用への門戸がとても狭い。 縁故採用も多かったため求人自体が少なく、さらに「“街の人間”は雇ってもすぐに辞める」と思われていた。 当時暮らしていた千葉県の森林組合や林業会社に片っ端から電話をかけても、採用はしないと言われた。 

なんとか採用してもらえたのが、東京都檜原村の森林組合だった。

「私がこの世界に入ったのが25歳だったんですが、そのすぐ上の先輩は55歳。メインで働く世代は60代という業界でした。
それまでは探検部や遊びで山に入っていたけれど、生業として山に入っているベテランの方々と一緒に仕事ができる喜びがありました。火の起こし方、木の切り方、山の作法。たくさんのことを教えてもらい、得られたことが大きかったです」

念願叶って入った林業の世界。楽しさはあったものの、高齢化や地域に閉じた産業であったことによるギャップもあり、想い描いたように行かないことも多かった。

「だいたいみんな年金をもらいながら働いてるから、ガツガツ働かなくていいんですよ。 『そんなに急ぐ旅じゃねぇ』っていうのが私が一緒に働いていた人の名言なんですが(笑)、当時はアルバイトが前提で保険の整備もあまりなく、雨の日が続いたり年末年始を挟むと月収がほとんどないこともありました」

これでは家族を持つ若い人たちが生活できないし、職業として日本の林業は良くならない。青木さんがそのように思い始めるのに時間はかからなかった。

「森林組合は地域になくてはならない情報のデータバンクですが、時代に合わせて変化していくのはなかなか難しい。それなら自分でやってみよう、と思ったのが『東京チェンソーズ』の始まりでした」

ちょうどドイツでワールドカップが開催されていた時。
自宅のテレビでサッカーを見ながら、その決意は固まった。
東京の山であること、そして、子どもにもわかるような名前にしようと「東京チェンソーズ」と名前をつけた。

林業を探検する

新たに林業の会社を立ち上げる!と聞くと、ショベルカーのような大きな機械や倉庫、木を切り出して運ぶ人員などかなりの資金調達と準備が必要になるのでは……と素人考えに思っていたが、実はあながちそうではなかった。


「その頃の木はまだ樹齢的にガンガン切り出す年でもなかったので、基本はチェンソー1本で山に入り、枝打ちや下草刈り(※)など木を育てる林業から始まりました」

※木の余計な枝を落としたり、伸びてきた雑草を刈り取ること


立ち上げ当初のメンバーは4人。もともと所属していた檜原村の林業組合とも丁寧に話し合いを重ねながら協力体制をつくり、下請けとして仕事をもらうところからのスタートだった。


立ち上げから4年目で吉田さんが参加。もともと8年間企業コンサルティングに携わり、林業とは無縁の仕事をしていた吉田さんは、これからの仕事への関わり方をぼんやりと考え始めていたころに、たまたまテレビで林業という仕事を知った。


「斜陽産業とか、過疎化とか、いいことはどこにも書いていなかったけれど、単純に面白そうだと思いました。仕事の意義を感じられて、それを社会に還元できるようなことがしたいと漠然と考えていたことにハマるような気がして。都の技術支援講習で青木と出会い、柔軟な考え方に触れてチェンソーズへの入社を決めました。

青木も自分の感覚に従うことを大切にしていて。導かれていく、みたいなところが似ていて心地よかったのかもしれません」


青木さんが東京チェンソーズを立ち上げた当初に比べると、国が林業雇用を後押しする「緑の雇用」制度ができるなど、若い人を雇おうという業界の意識は高まっていた。


今回お話を伺った吉田さんだけでなく、高橋さんや社本さんもみな林業とはまったく違う業界からやってきた。仕事への意義ややりがい、自分や子どもが暮らす環境への疑問。そういった自分の存在意義や仕事の本質を考えたときに、「導かれるように」吸い寄せられるような不思議な求心力が林業という仕事にはあるのかもしれない。



東京チェンソーズは今は総勢20人。山を維持したり木材として販売するための林業事業に加えて、木を切り出す際に出た端材を活用してカッティングボードや精油を開発するなど、人々にこの豊かな山を身近に感じてもらえるようなさまざまな取り組みを行っている。



2021年に完成した「檜原 森のおもちゃ美術館」に隣接した工房で、東京の山の木を活用したおもちゃや机、椅子などを製造するのも彼らの事業のひとつ。



小杉湯で実施した「東京チェンソーズの湯」の際は、既存のプロダクトに加えてつるつるに磨いた木の枝や、切り株も持ってきていただいた。やすりをかけ赤ちゃんの肌のようなやわらかい色の大きな木の枝なんて、都内のインテリアショップを見てもなかなか手に入らない。


東京チェンソーズと銭湯の根底に流れるもの


“私たちは先人の思いを胸に、山を預かり、丁寧に手入れをし、財産価値を高めることを仕事としています”


私は、東京チェンソーズのWebサイトにあるこの言葉が好きだ。


「この40年、日本の林業はほとんど補助金に頼ってきてしまっていました。補助金をもらうために作業するようなメンタリティでは、環境を維持することはできるけれど財産価値を高めることができない。みんなが自分の大切な場所として関わりたいと思えるような山の入り口をどう作っていけるのかを模索しています」



ただ維持をするのではなく、どうやってその時代に合わせた価値を見つけてゆくか。山に関わる入り口を作り、自分ごと化してくれる人々の輪をどう広げてひろげてゆくか。大きな課題だけれど、東京チェンソーズの方々はみなとても楽しそうに話す。


グッズの制作・販売や、小杉湯のような異業種を山に迎えて色々な角度のアイデアを募ったりと、林業という枠にとらわれずに何ができるかを模索している姿は、まさに林業という世界を探検しているようにも見える。


「先人たちが未来の子や孫に残そうとした山を預かっている」


それは、植えてから育て、材となるまでに半世紀以上の時間がかかるという山特有の時間軸ゆえの考え方かもしれないけれど、「受け継いだものを預かっている」という感覚は、小杉湯でも感じていたことだ。


その考え方は、必然的に過去とも未来ともつながった視点になる。小杉湯は銭湯という場所を、”誰もが気持ちよく過ごせるお風呂”として、東京チェンソーズは、山という場所を”誰もが森を身近に感じられる場所”として。



小杉湯も東京チェンソーズも、脈々と続く歴史の中で、次の世代に継いでゆきたい大切な場所を守りながら、時代の変化に合わせてしなやかに変わることを楽しんでいる。その根っこがとても似ているのだと、話を聴き終わるころには感じていた。


編集後記 : 承認欲求を原動力に


青木さんは、自分の欲求に素直な人だ。

お話を聞いていて、ふと自分の新卒の頃を思い出した。何か自分にしかできないものを作りたい、と思って社会に出て働き始めてしばらくすると、自分ではなくてもできるたくさんの仕事によって、社会が作られていることに気づいた。

何か爪痕を残せないか、と自分らしさと戦った時期もあったけれど、そのうちにそういう仕事のおかげで、人は代わる代わる支え合いながら働き、そうして暮らしはまわっていることにも気づき、その中で自分が携わるからこその価値をうまく出す方法を身につけてきた。

”自分にしかできない仕事”というある種の承認欲求は、働く上でも人間関係においても、みんな1度は悩みひとりひとりのやり方で乗り越えたり突破したり表現していることのような気がする。

青木さんは”自分が認められるところはどこか”を、とことん純粋に考えた結果、林業にたどり着いた。

「探検ってまさにその承認欲求が原動力なのかもしれません。自分が人跡未踏の地に行きたいだけなら、それは”冒険”でいいんです。探検部っていうのは、行った後に報告書をきちんとまとめて、認めてもらうことが大事。そういうのが根っこにあるのかもしれません」

認められたいという欲求は、もともと人間にある欲求ではあるが、昨今ネガティブに受け取られることが多い。しかし、そこに純粋に、素直に向かっていったことで、東京の山には東京チェンソーズが生まれた。 

承認欲求に正直に、自分の得意なことを大切にすることは実はすごく大事なことなのかもしれないと気付かされた時間だった。

あとは単純に、東京チェンソーズさんの山の楽しみ方が羨ましかった。取材の時は私は子どもを連れていたのだけれど、作り込まれた公園でも野生の森でもなく、大人も子どもも木や土に自由に触れられる空間がとても心地よかった。



私も銀色の山を見てみたい。ふらっと思い立った時に焚火をして、火を見つめてみたい。彼らは山を守るとか活用するとか頭でニーズや理屈を考える前に、自らが山で遊び、山の時間を楽しみ、自然の景色に心を動かしている。

それが山との関わり方をつくり、仕事を楽しむ秘訣なのかもしれない。


青木さんにとっての「ケの日のハレ(≒日々に溶け込んだ些細な幸せ)」とは?

青木亮輔
1976年大阪生まれ。東京農業大学農学部林学科卒。株式会社東京チェンソーズ代表取締役、MOKKI株式会社代表取締役、(一社)TOKYOWOOD普及協会専務理事。2023年5月より檜原村議会議員。「林業に縛られず、林業にこだわる」がモットー。



「山は天気や季節、木の成長によって毎日変わるから、いつもどこか新鮮です。普通の会社に行っても、オフィスが自ら勝手に変わることはないけれど、ここは環境の方が勝手に変わっていくんです。昨日と同じ場所だけど、どこか違うと日々感じられるのは面白いです。

檜原村の山は、戦後人の手によって植えられた木が成長してきて、心地いい空間になりつつあります。この森林を、日常の中のハレの日としてみんなに使ってもらえたらいいですね」

吉田さんにとっての「ケの日のハレ」とは?

吉田 尚樹
1978年、東京都杉並区出身。アメリカ・マカレスター大学文化人類学部卒。苗木の植え付けや下草刈り、間伐といった林業の現場作業を経験したのち、現在は販売部門を統括。木を1本余すことなく使い切る“1本まるごと販売”では空間デザイナーや設計士と組んで、都市部に“森”を届ける。



電車内で広告を見て思い立って高野山に向かった帰り道、たまたま東京チェンソーズの求人を目にした直感で林業業界に飛び込んだ。ケの日のハレは「秋冬のグレーなトーンからひとつずつ、確実にかわってゆく山の変化を見ること。変わる速度が山はゆっくりで、それを見つけるのが楽しい」

髙橋さんにとっての「ケの日のハレ」とは?

高橋和馬
1985年、新潟県越後湯沢町出身。株式会社東京チェンソーズで、ブランディング全般や森デリバリーを担当、現在は3年目。「森と人がどうしたらより良くつながっていけるのか」を考え、日々奮闘中。



元食品メーカー勤務。大量生産、大量消費の食品業界構造を目の当たりにしたことで、自然を搾取し消費するのではなく、仕事を通して環境との循環を作ることができるような働き方はできないかと東京チェンソーズに参加。ケの日のハレは、「考え事をするときに、ふらっと山に入って焚き火をすること」

社本さんにとってのケの日のハレとは?

社本真里
1992年、愛知県出身。名古屋芸術大学デザイン学科卒。2021年入社。1本まるごとの素材や特注家具製作のなど販売を担当し、森と人をつなぐ新しい手段を日々考えている。



頭で考えずにこの会社に入り、檜原村に越してきた。来てみたら面白くて、面白いからつづけている。ケの日のハレは「春の朝、芽吹き始めた森が銀色に見える瞬間」。


文:宮早希枝
編集:鼈宮谷千尋
写真:篠原豪太